台湾の原住民たちが清朝というこの伝統的な王朝国家に初めて直面した頃、各部族とも様々な形で交流を開始しました。西部地域に暮らす多くの部族は、清朝への朝貢や労務提供を行い、山間部や東部地域のほとんどの部族は部落の自主運営を維持し、清朝政府の管轄下には入りませんでした。官府は統治コストを考慮して、西部地域だけを統治することにし、山間部と東部地域を「文明的ではない場所」という意味の「化外」と呼び、直接統治を避けました。そして、統治を進めていく上で、原住民を統治下にあるかないかによって、「熟番」、「生番」と区別しました。